カフェイン中毒の自殺はつらいからやめとけ

やめとけ。死ぬの思ったよりしんどいからよ。まだカフェインを出してる段階で意識もあるしTwitterもいじらるし頭もソレなりに回るんだけどなんせしんどい実家に強制送還されるとのことですから来週。来週私の死にかけの話を残しておきたいとおもうた。ので記事を起こしておいた。ねよ。カフェイン中毒自殺行為は、やめとこ。誰かのブログで読んでめっちゃ思った。地獄から引越しをするにも地獄。


2020/7/5

私にやっと、踏ん切りがついてきたので、備忘録をようやく書こうと思う。


その日、私はなんだか疲れてた。何をしたわけではないけれど…1ヶ月の休職をもらって後3日で復帰というとこだった。薬が増えて、発作も増えて、思うように仕事ができない自分、が嫌だった。仕事だって自分で言うのはなんだけど、ちゃんとやって、細々とした友達もいて。普通なオーエルだった。

多分私は私が思うより完璧になりたくて、結果を出したくて。成果を出すうちに増えていくタスクに、増えていくほど疎かになる生活に疲れていた。

毎日死ぬ方法を調べては、これはできそう、これは無理だなと思う事がなんだか自分の逃げ道、拠り所に感じていた。手を出してはいけない逃げ道に私は逃げた。


その日、私は赤頬思春期の「私の思春期へ」を聞いていた。

美しかった時代が辛くて、愛されていないのがとても嫌で、パパもママも見つめてるのに心は裏腹に遠ざかってく。

この言葉が自分のようで辛かった。SNSを開けば私が続けたかったけど諦めたことを続けてる友達たちがいて、自分ばっかり辛いと思った。上司の失敗をなすりつけられて頭を下げて、新人の私には不釣り合いなくらいな大きな案件を私が持って、いつも頭を抱えて。わたしだけどうしてこんなに辛いのかと思った。

ふと、精神安定剤オーバードースをしてた友達の友達を思い出した。精神安定剤ってバケツいっぱいに飲んでも死なないって言うし、簡単に飛ぶって。リスカより痛くない自傷行為

机の上に無造作に置かれた薬に手を伸ばした。ズボラなので飲み忘れた薬達が100錠ほど。


全部飲んだ。壁もドアもミント色になって、よくわからない高揚感だった。景色がゆらゆらと揺れて、これがオーバードーズなのか?なんて。友達に電話をかけたり、友達とのラインにかわい〜!とめちゃくちゃに送ったりした。「酔ってるの?」と言う言葉に素直にオーバードーズしたの。なんてカラカラ笑うと、電話口からため息が聞こえた。それさえも面白かった。死なないとわかっていたけど死ねればいいなと思って、その日はカーペットに寝た。


朝、寒くて目が覚めた。その日はすごく雪が降っていた。でも私からはまだ薬が抜けていなくて、死んでない自分がすごく嫌で、どうしても死にたくて。最近見たカフェイン中毒で死にきれなかった人の記事を見て、私は死ねるかもしれないって安直な考えで、顔を洗って歯を磨いて服を着替えて外に飛び出した。まだ薬が抜けていないからサクサクと床に沈む自分が面白くて、足元だけを見て歩いた。


コンビニと薬局を梯子してカフェイン剤を200錠、カフェインドリンクを2本買った。帰り道はやったしねるんだという安堵と映画を見る前のようなワクワクした感覚だった。帰りも雪が面白くて、わざと足を上げながら帰った。

薬を飲むために酒じゃなくてコーラを買って帰ったのは、ちょっとだけ死ぬのが怖いなと思ったからだと思う。


薬を一気に飲んだ。カフェインドリンクは一杯でコーヒー4杯分のカフェインって書いてあった。その割に美味しいななんて。飲み終わった後、私は死を待った。



でも待てど暮らせど私は死なない。全身が心臓みたいに動いて、二日酔いの100倍辛い吐き気がやってきた。私は水をめちゃめちゃに飲みながら冷や汗をかいていた。死ぬのが怖くなっていた。

知り合いに「死ぬためにカフェインを死ぬほど飲んだのに、死なない」って泣いた。焦ったような声でちょっと待ってて、と言う声がして。ゲロを吐きながら待っていたらお父さんが来た。正直一番申し訳なくて、会いたくなくて。元気なふりした。でもトイレから立ち上がらなくなって這い出た後に寝ながらゲロを吐いた。朦朧とした視界では焦ったようにお父さんが救急車を呼んでいた。私は生きてるのに死んでるみたいだった。

救急車で搬送されながら、なんで私人に死ねないなんて電話したんだろうって後悔した。意識は朦朧としてるのにサイレンの音ははっきり聞こえていた。


死ぬと言うものの死ぬための代償は重くて、点滴に繋がれて定期的にゲロを吐いて、気持ち悪くて何もできなくて、看護師さんにナースコールを押しては水をください。トイレに行きたいと泣いていた。正直記憶はない。そういうのの専門の病院じゃなかったので私は1日で病院から出された。お父さんの車から見えた景色はお前は死んでないよと言っているようでつらかった。

家に着いたらお父さんのベッドに寝かせられた。呼吸をするたびにアーー!と叫び声を上げて関節の痛みに夜中に大声で泣いた。横隔膜の痙攣でとれたての魚のように体が跳ねた。思い通りにならない体より隣にいるお父さんを見るのが辛かった。自分の娘が死にかけていて。しかも自殺なんて。見たくないだろうそんな姿。私も見せたくなかった。心配して父に電話をかけてきた母に大泣きして懺悔した。心配かけてごめん、しのうとしてごめん。母は泣きながらいいんだよ。生きててくれてよかった。と言った。また申し訳なくて泣いてたら痙攣がひどくなってお父さんが電話を切った。3日くらい、こんな生活を続けて、やっとカフェインが抜けたわたしは地元に送還された。コロナのせいでギリギリ飛行機が飛ぶか飛ばないかのラインだった。飛行機の中で窓を見ながら泣いた。





でも私は関東での生活を諦められなくて、九州からまた出てきてしまった。会社は場所を移動して、細々と在宅で働いてる。暇すぎて時々ポケ森してる。


死ぬって難しいなと思った。